日本福祉大学学長賞
「命をつなぐために」

半田市立岩滑小学校 6年

森 満里奈

「満里ちゃん、お参りしていこう。」
龍ねん寺の中にある石碑の前を通る時、おばあちゃんはいつもこういいます。その石碑には、「豊川海軍工しょう」で亡くなったおばあちゃんの友達が祭られているのだそうです。

私は、前に沖縄の「ひめゆりの塔」や広島の「原爆資料館」へ行ったことがあります。「ひめゆりの塔」へ行った時には、まだ小さかったのでこわくてその場にいられなくなって逃げ出してしまいましたが、三年生の時に行った広島では、原爆が落とされた後の写真や焼けた服、溶けた弁当箱などのたくさんの資料を見てきました。「どうして、こんなひどい戦争が起こってしまったんだろう。戦争のことをもっと知りたい。」と思い、おばあちゃんに話を聞きました。

昭和二十年八月七日「豊川海軍工しょう」に爆弾が落とされました。千五百四十五人もの人が亡くなり、その中には、おばあちゃんの友達もたくさんいたそうです。おばあちゃんは、昭和十九年四月から二十年七月三十一日まで「豊川海軍工しょう」へ学徒動員で行っていたそうです。「働く時間は一日八時間。始めの頃は、手が油だらけになって、鉄の棒を削る仕事をしていたんだよ。うまく削れない鉄を機械の前で二時間、立ちっぱなしでとてもつらかった。一ヶ月ちょっとで、事務の仕事をするように言われ、計算や電話番をしたんだよ。空しゅうで豊橋に爆弾が落とされた時には、壊れた橋を自転車で渡って豊川まで行ったり、戦争中にあった三河地震の時には、歩いて豊橋まで帰ったこともあったよ。たくさんのこわい思いをした。」とおばあちゃんが言っていました。おばあちゃんは、たまたま七月三十一日仕事をやめていたので八月七日の空襲の時に「豊川海軍工しょう」にいなかったのだそうです。私は、おばあちゃんから話を聞き「もし、おばあちゃんがあと一週間、長く働いていたらおばあちゃんも、ぎせい者になっていたかもしれない。」と思いました。おじいちゃんもおばあちゃんも「たいへんな戦争の時代を生きぬいてきた。」と言っています。今、私たちがいるのは、おじいちゃんやおばあちゃんが生きていてくれたからだと思います。今、私が生きていることはあたりまえのことではないのです。私はいつも「命は大切だ。」と思っていましたが、おばあちゃんの話を聞いて、いっそうその気持ちが強くなりました。おばあちゃんは今、八十歳です。「足や腰が痛い」と言っていますが、元気で毎日いろいろなことにチャレンジしています。

命がつながっていくためには、平和な世界が必要です。みんなが約束やきまりを守れば戦争がなくなり命が守られます。私は世界中の人たちが戦争をやめて、世界中の人たちの大事な命をつなげていってほしいと思います。そして私は、これからも私が受けついでもらった命をもっともっと大切にしながら、命の大切さについて考えていきたいと思います。