日本福祉大学学長賞
「命について私が考えたこと」

半田市立乙川中学校 3年

諏訪下 知紗

「ここでお花をお供えしていこう。」
昨年の冬休みに家族で出かけた沖縄旅行先である、ひめゆりの塔にて祖母が言った。
祖母は花束を買い、私と一緒に献花台に載せ祈った。

私たちがひめゆりの塔に出かけたのは、旅行の最終日だった。それまでは沖縄のきれいな海を眺めたり、水族館に行ったりしてとても楽しく過ごしていた。ただ、ひめゆりの塔だけはどこか悲しげな雰囲気がした。
「おばあちゃん、ここはどんなところなの。」私が尋ねると、祖母は言った。「悲しいことがあったんだよ。ちょうどあなたと同じくらいの年齢の女の子たちだと思うけど。」

家族で資料館に入ると、少女たちの白黒写真がたくさん展示されていて、その下には、「不明」「十五歳没」などが記されていた。資料館の資料や映像などから、このきれいな海の元でたくさんの命が絶たれたことが分かった。「ひめゆり部隊」と呼ばれる少女たちは、元々私と同じ学生であった。日本が戦争になったとき、少女たちは召集され、負傷した兵士の世話をすることとなったそうだ。「きっとすぐに学校に戻れる」と信じて。しかし戦争の雲行きがあやしくなってくると、負傷兵が増え、少女たちはその世話に追われるようになり、顔を洗うことや歯を磨くことさえもできなくなった。そして、戦争に負けると「自決」したそうだ。

そういえば以前、祖母がこんなことを言っていたのを思い出した。
「私は本当のお父さんを知らないの。」

私の曾祖父に当たるのだが、マーシャル諸島のミレー島で二十九歳という若さで戦死したそうだ。祖母は当時一歳で父のことは記憶になく、五歳になると養女に出されたそうだ。

戦争は遠い昔のことだと思っていたが、その戦争で受けた影響は今でもずっと続くのだ。祖母はきっと、本当の父に会いたいと今でも思っているのだろう。

養女に出された祖母と祖母の妹は、そこで生き延びることができた。そして、祖母が懸命に生きていたからこそ、今の私の命へとつながっているのだ。

私は、ひめゆりの少女たちの写真を一枚一枚見て、心の中で思った。
「きっとまだ生きていたかったでしょう。辛かったでしょう。私は、あなたたちの分までしっかりと生きていきます。」

私は生かされている。みんなから受け継いだ命で。

平和が当たり前なのではなく、戦争を経験した人たちが二度と戦争を繰り返すことなく平和の世を築いてきてくれたのだ。そのことを忘れずに、自分の命を引き継いでいきたいと思う。