日本福祉大学生涯学習センター長賞
「美しい自然の裏に」

半田市立亀崎中学校 3年

藤本 達也ふじもとたつや

 みなさんは、半田市にある七本木池という池を知っているだろうか。自然にあふれ、野生の鳥などをたくさん見ることができる。最近になって、その七本木池は自然と人工物が調和した、よい公園となった。多くの人がその公園に足を運んでいる。そんな池には、公園ができる前、僕がまだ赤ちゃんだったときよりも前から、三人の女の人が立っている像がある。僕はいままで何度もこの像を見てきたが、この像の意味は知らなかった。

 僕が半田の街について調べていたときのことだ。インターネットで調べていると、七本木池のことが書かれていた。公園のことだろうと文を見ていると、僕の中に衝撃が走った。そこにはこの池が、戦争中に空爆にあったことが書かれていたのだ。信じられなかった。小さなときからずっと見てきた池が、かつて空爆に遭っていただなんて。戦争の魔の手が都市部だけでなくこんなところにも向けられたことを知り、僕は戦争を、身近に感じた。こわくなったが、具体的に何があったのかを知りたくなり、僕は文の続きを読んだ。

 昭和二十年七月十五日のこと、海軍からドラム缶二百本ほどの油が中島飛行機半田製作所に運ばれた。空襲警報が鳴る日々。工場に置くのは危険であったため、そのドラム缶を牛車に載せ、七本木池の雑木林に隠した。夏であったため、雑木、雑草が多く、敵から隠れて動くには十分であった。しかしその一週間後、米軍が来襲し、半田製作所、寮などがほぼ崩壊。およそ二百人もの人が命を落とした。その時、米軍は七本木池を重点爆撃した。米軍はドラム缶の在処を知っていたのだ。その雑木林は住民の避難所でもあった。警報を聞いた住民らが身を寄せ合って災難が去るのを待っていた。そこに米軍は爆撃をした。全員が焼死してしまった。

 この内容を知ったとき、僕は声を出せなかった。自分たちの街が、昔空爆に遭っていたことがやっぱり信じられなかったし、こんな大きな事件があったのに、僕は何も知らなかったことが命を落としてしまった人たちにもうしわけなく感じたからだ。母にもこの話をしてみたが、このことは知らなかったという。つまり、この戦争の傷跡が受け継がれていないのである。人によっては知りたくない人もいるかもしれない。しかし事件があったことすら知らない僕たちは、かつて戦争の中で警報と爆撃の音に怯えながらも、爆撃を受けるまで、必死に生きた人々のことを忘れているのである。

 三人の女の像は、焼け死んだ人の霊を慰めるために建てられたそうだ。通称「乙女の祈りの像」というそうだがその名前は書かれていない。今は美しい自然があふれ、爆撃の跡はない。しかし、そこで爆撃があったことは「乙女の祈りの像」が示している。だから僕は、このことが完全になくなる前にたくさんの人に知ってもらい、次の世代にも受け継いでいけるようにしたい。