半田市長賞
「僕たちの使命」

半田市立成岩中学校 2年

若松 太志わかまつ たいし

 八月十五日、終戦記念日、僕は家族と一緒に黙祷をした。戦争が終わって七十五年が経つ。同時に大好きだった曾祖父の事を思い出した。曾祖父は僕が小学校低学年の頃に亡くなった。まゆ毛がたれていて、すごく優しい顔をしていたが、左の胸と左の脇腹がえぐれていた。「この傷、どうしたの。」と聞くと、幼い僕にわかりやすい言葉で戦争の話をしてくれた。

 曾祖父は海軍に所属していた。船に乗って戦っていたときに、爆撃によって左胸と左脇腹を負傷したそうだ。仲間が次々と自分の目の前で亡くなっていき、恐怖と悲しみに押しつぶされそうになった事も涙を流しながら話してくれた。当時、幼かった僕は、傷がまだ痛くて泣いているのだと思っていた。しかし、今ならわかる。何十年経っても、戦争によってできた曾祖父の心の傷は消えていなかったのだと。戦争での負傷によって、あまり長くは生きられないと医者から言われていた曾祖父だったが、「亡くなった戦友の分まで生きたい。」という言葉の通り九十五歳まで長生きをした。

 それから戦争に興味をもった僕は広島平和記念資料館を訪れた。八月六日午前八時十五分、世界で初めて広島に原子爆弾「リトルボーイ」が落とされた。それと同時に、何万人もの罪なき尊い命が一瞬にして奪われた。そんな爆撃の被害を受けた建物や人々の写真、遺品などが展示されているのが広島平和記念資料館である。資料館には、思わず目を覆ってしまうような写真や遺品がたくさんあり、それらから戦争の恐ろしさや悲惨さが伝わってきた。どこを見ても胸が締めつけられ、悲しい気持ちになったが、この事実から目を背けてはいけないと思い、僕はしっかりと目にやきつけた。

 また、原爆投下によって被害を受けた人は、七十五年経った今でも、その被害に苦しめられていると聞いた。僕の曾祖父と同じように被爆者も心と体と両方傷つけられているのだ。戦争をしていい事など一つもない。残るものは悲しみだけだ。しかし、世界にはまだ戦争が続いている国があるのも事実である。こうして作文を書いている今も、罪なき人の命が奪われていると思うと、いたたまれない気持ちになる。平和な時代に生まれた僕たちは、それを当たり前だと思わずに、感謝しなければいけない。戦後七十五年で、人々の記憶から「戦争」という二文字が薄れていると言われている。

 僕たちは戦争体験者から直接話を聞くことができる、最後の世代となる。戦争の悲惨さ、恐ろしさを風化させないためにも、次の世代へと語り継いでいかなければならない。それが僕たちの世代に与えられた使命なのだ。