特別賞
「先輩から受け継いだメッセージ」

武豊町立武豊中学校 3年

片瀬 由理かたせ ゆり

 夏休みに私は、本を返却するため母と武豊町立図書館へ行った。何気なく、入口付近の展示室に足を踏み入れると、最初の一枚のパネルに目が釘付けになった。私は、何とも言えない気持ちになった。穴があき焼けただれた服。これは、戦時下での中学生の遺品だった。他にも皮膚がただれた写真や原爆のイラストがあった。「非核・平和パネル展」は、私に戦争の現実を痛いほど教えてくれた。

 「私は今まで戦争と自分は関係がないと心のどこかで思っていた」と母に話すと「読んでみたら」と数冊の本を渡してくれた。それは郷土コーナーにあった本で、武豊町の歴史が書かれていた。読み進めていくと、私の町でも爆撃があった事実を知った。死者は十七人。隣の半田市にある中島飛行機が狙われていたが、武豊町の上ケ駅付近に爆撃が落とされた。そこは、私もよく通る道なので他人事ではない。無差別な爆撃で平穏な生活をしていた人達の命が一瞬で奪われたことに、私は悲しみと怒りが込み上げてきた。こんな悲劇はもう二度と繰り返してはいけない。

 また、驚くことに私が現在通っている武豊中学校も戦争の影響を多く受けていた。戦後すぐに武豊中学校は、今はなき郊外保養園(旧野外活動センター)の仮校舎から始まった。当時は食料欠乏時代で、サツマイモの弁当が多く先生も生徒も手製のゾウリで、わら半紙の教科書を持って登下校していた。給食もなく今とは全く違う。自分で靴を作り食べ物も不足する厳しい生活の中で、部活や学業どころではないはずだ。生きる事にみな必死で毎日どれだけ大変な生活をしていたのだろうか。数えきれない程の我慢もしていたと思う。

 さらに当時の卒業生の作文を読むと、高校に進学する生徒はクラスの約一割だった。これには、強い衝撃を受けた。頭が良くても親のことを思うと言い出せず、生活のために働かなければならない。また女生徒には「女は家庭に入って、良妻賢母」という当時の考え方もあり高校へ行かずに洋裁学校へ進んだ人も多くいた。進路を自分で決められない時代に私は悔しさを感じた。

 私はこの夏受験生であるが、進路は自由に選ぶことが出来る。サツマイモ以外の美味しい料理も食べられる。働かなくてもよい。幸せな生活だと気づいた。しかし、戦争とは理不尽で人格を否定される悲しい歴史だ。これを私達は忘れてはいけない。

 今年の夏、東京オリンピックが開催された。これは再び戦争が起こらないように、世界の人々が互いに繋がり合おうという願いが込められ始まった平和への祭典を意味している。武豊中学校の生徒である私は、先輩が流した涙、苦労。そして戦争に反対する思いを受け継いだ。戦争は、私の身近にあったのだ。だから考えよう。平和な世界を作るために、一人一人がすべきことを。

【参考文献】
「知多の戦争物語40話」 半田空襲と戦争を記録する会編 若い世代に伝えたい戦争の話 発行(有)一粒社出版部
「想い出さまざま」 武豊中学校第三回生の会 激動の中に育ちて サマリヤ社
 武豊中学校50年誌 知多郡武豊町立武豊中学校 ヤマギワ工芸印刷