半田市長賞
「力強く生きたい」

東海市立富木島中学校 3年

黒沢 春佳

三月十一日、私は東日本大震災で被災しました。住んでいた所は、岩手県大槌町です。私の家は、キレイなエメラルドグリーンの海が広がる自然ゆたかな町にありました。大槌といったら、アニメにもなった、ひょっこりひょうたん島があるのが有名です。私の家から徒歩、約5分ほどでひょっこりひょうたん島にいけるほど近く、自分の部屋から見る島が大好きでした。そんな島も大好きな大槌もあの三月十一日午後二時四十六分の大津波で失いました。

私の家族は六人で、両親、弟と妹、曽祖母でした。父は五年前から単身赴任で愛知ではたらいていました。地震当初は、母は仕事、妹と弟は学校、私と曽祖母は家にいました。私は、次の日が卒業式ということがあり、午前授業で家に帰宅していました。あと三十分もしていれば遊びに出ていたのかもしれません。私は部屋でテレビを見ながら休んでいました。すると、裏の山と下の地面の方から、ゴロゴロという音が聞こえ、家が揺れました。そのときの私は、「いつもみたいに少し待てば、すぐおさまるでしょ。」という考えでいたので、揺れがおさまるのを待ちました。でも揺れは増す一方で、さすがに“大変だ“と思い、下の階におりました。曽祖母は足が悪く、自由に歩いたりすることが出来ません。でも、強い揺れの中、痛い足を引きずってでも、玄関を開けてくれていました。母に何度電話してもつながらず、あきらめかけていました。すると、親せきのおじさんと母がむかえに来てくれました。急いで車にのり、高台にある親せきの家に避難しました。大津波警報が発令され、周りはパニック状態でした。この高台の親せきの家まで波は来ないだろうと、誰もが思っていました。黒い土けむりと共にせまってくるバキバキという音。聞いた事のない音・・・津波でした。急いでさらに高台へ逃げました。そのときにはもう、木の板や船がうかぶ大きな水たまりのようなものが出来ていました。もちろん、海を百メートルほどしか離れていない私の家はありません。震災から約十日間、近くの小学校で避難所生活を送りました。その後、新がたの親せきの家にしばらくお世話になり、父の居る愛知県に来ました。

今、こうして私達家族が元気にすごせているのは、たくさんの人の支えがあったからだと思います。避難所でお世話してくださった方々、支援してくださった世界中の方々に心から感謝しています。そして家族にも感謝したいです。私は、千年一度と言われる貴重な経験をしました。大好きな町も思い出も、何もかも失ってしまった今、生きていられることの喜びと感激でいっぱいです。この経験は、一生忘れてはいけない事だと思います。たくさんの感謝の気持ちを忘れず、私にしか言えない「ありがとう」の言葉を伝えたいと思いました。生きたくても生きられなかった人達の分も力強く生きていきたいと思いました。