半田市生涯学習推進協議会賞
「今だからわかること」

半田市立亀崎中学校 3年

梶川 裕加里

昔、私は祖母に対してあまりいい印象を持っていなかった。祖母は、ドラマでよく見る鬼姑というわけではなかったが、祖母が母に言う言葉にときどき嫌みがこめられているのが私にもわかったのだ。それでも、母は祖母が入院しているとき毎日お見舞に行っていた。祖母が家にいるときもちゃんと介護をしていた。動けない祖母のおむつを替えたり、ごはんを食べさせたり、私は母を尊敬した。

母が留守中、私達子どもだけで祖母を介護しなくてはいけない時があった。私は祖母の部屋の隣りでテレビを見ていた。「おおーい。」と祖母が私を呼んだ。祖母はトイレに行くという。体の不自由な祖母をトイレに連れて行くことは簡単ではない。私は迷いながら祖母に近づいた。その時足に生暖かいものを感じた、それは祖母の尿だった。私はとっさに汚いと思った。「ちょっと待ってて。」と言い、お風呂に急いだ。私は一生懸命にならなければいけない事を間違えたのだ。足を洗い終わった後、伯母に来てもらった。家に来た伯母は、私に向って「ありがとね。」と言った。私は複雑な気分になった。

数日がたったある日の朝、祖母の意識が無くなっていた。その事に気付いた父が急いで救急車を呼んだ。しばらくして祖母の意識が戻ったと連絡が入った。そして私達も病院に行くことになった。祖母は体に何本もの点滴をさしていた。横には体に直接空気を送り込む機械がおいてあり、生きているというより生かされているという感じだった。そんな祖母が私の前に手をさし出した。私にはその手をどうするべきかちゃんとわかっていた。でも震えながら出すしわしわの手、私はその手がこわかった。母はそのことを察したのか私のかわりに祖母の手をにぎった。数ヶ月後祖母は死んでしまった。

私はあの時、祖母の手を握ってあげれなかった事を今もずっと後悔している。どんな気持ちで私に手をさし出したのか、考えるだけで苦しくなる。祖母は入院中何度も死にたいと言っていた。なんで生きたいと思わせてあげられなかったのだろう、なんで私はお見舞に行くたび一言もしゃべらずに帰ってしまったんだろう。祖母の最後の退院は体調が安定したからではなく、家に帰りたがったからだった。帰って来た祖母に私は「おかえり。」とも言ってあげれなかった。祖母が死んでしまったとき、私の頭には入院中の祖母の苦しそうな表情よりも、祖母が元気だったときのあの笑顔が浮かんできた。もう届かなくなってから思い浮かぶしゃべりたい事。無くして初めて気付く大切なものとはこのことだと思った。私は母と一緒に祖母の棺を閉じる時「ありがとう。」と言った。

私はまたこの先大切な人をなくすかもしれない。その時になにも後悔せず笑って別れを言うことはできないだろう。だけど、これだけ「ありがとう。」だけは言いたい、ちゃんと相手が笑い返してくれるときに。