特別賞
「生の実感」

東浦町立北部中学校 2年

岡戸 里紗

「いのち」と言えば、私には、鶏を絞めてさばいた経験がある。というのも、林間学校の時にコース別体験学習というものがあり、その中でも私は「鶏をいただく 奥美濃生活体験」を希望したからだ。理由は、鶏を自分で絞めるなんてめったに出来ない体験なので、是非ともやってみたいと思ったから。間違っても「面白そうだから」「なんとなく」といったとんでもない理由では無い。そして林間学校二日目になり、コース別体験は始まった。

一匹目は係員さんが絞め、二匹目は心に決めていた通り、自分で挙手し自分で絞めました。絞める前に触った鶏は、とても温かかったです。鶏を木に縛り吊り下げ、羽を羽交い絞めにし、首の毛をすこしむしって、カミソリで首の頸動脈を切りました。鶏は泣き叫び、暴れ、首からは血がぼたぼたと流れ落ち、そして鶏は事切れました。「あぁ、これが生きているということなんだな」というのが私の感想です。私は鶏を絞めた時のあの感触、あの光景は決して忘れる事がない、いや、忘れてはいけないと思います。

人間は、動物や植物などの他の「いのち」をいただいてしか生きることが出来ない生き物です。祖母の時代には、家畜を家で絞めたりさばいたり、ということが普通に行われていたと聞きました。しかし現代では、ほとんどの人がスーパーマーケットなどのお店で、元の姿が想像できないほどきれいに解体され、パックされているお肉を買って食べています。しかも今の日本は飽食の時代。多くの生き物が機械的に殺され、市場に出て、買われ、そして食べ残しとして捨てられています。私のまわりにも、給食を残したり、給食に対して文句を言う人をよく見かけます。屠殺や植物を育てる作業もなしで、食物となるまでの過程を想像することすらなく、食物を日常的に食べたり捨てたりしている私たちは、はたして人間として健全なのだろうか。私たちに食べ物を与えてくれた「いのち」たちに、もっと感謝の気持ちを持って美味しくいただこうではないか。そう思ってしまいます。そう考えると、生き物の「いのち」をいただいて人間は生きているということを直接的に実感できたのは、私にとってとても有意義な事だったなと思います。

今の世の中、ほとんどの人は私のような体験をする機会はあまり無く、どちらかと言うとゲームやパソコンといったヴァーチャルな世界を体験する方が多いです。そういった「いのち」や「生」を実感していない人が多いから、簡単に人の命を奪ったりするような事件が絶えないのだと思います。こんなご時世だからこそ、もっといろいろな人が自分なりに「いのち」について触れ、考えてみるべきではないのかなぁと思いました。