特別賞
「八月十五日から学んだこと」

半田市立亀崎小学校 5年

杉本 紗織

八月十五日の新聞に変わったページがありました。古ぼけたうす茶色の印さつで、小さくてむずかしそうな字がたくさん書かれていました。ふしぎに思ってお母さんに、
「これ、何。」
と聞くと、お母さんは、
「六十年前の八月十五日の新聞だよ。」
と教えてくれました。
「何が書いてあるの。」
「日本が戦争に負けたことがいろいろ書いてあるんだよ。」

それから、お母さんは、八月十五日は終戦記念日という日で、戦争で亡くなった人をなぐさめるために、おいのりする日だと教えてくれました。

わたしは、昔、日本がアメリカと戦争をして負けたことは知っていました。ばくだんからにげるために防空ごうというあなの中に入ったことも知っています。でも、その他のことはよく知りません。わたしのお父さんもお母さんも本当の戦争は知りません。でも、おじいちゃんは、戦争のことを知っているそうです。だから、お母さんは、子どものころからおじいちゃんに戦争の話を聞いていたそうです。その中で、お母さんが今でもよく覚えている話をわたしに教えてくれました。

日本は戦争に負けたとき、とても貧しかったそうです。食べる物が足りなくて、困っていたそうです。おばあちゃんの家は農家だったので、家の畑で作った野菜や、飼っていたにわとりの肉や卵を食べることができたけどおじいちゃんの家は農家ではなかったので、食べ物を手に入れるのは大変だったそうです。

中学生だったおじいちゃんは、あるとき、知り合いの農家に野菜をもらうために、今の豊田市のころも町まで行ったそうです。お金では売ってもらえないので、お母さんの着物をリュックにつめて、汽車を乗りついで出かけました。そして、リュックにいっぱいの野菜をつめこんで、満員の汽車で帰ってくると中、汽車の中でリュックが破れてしまったそうです。破れたあなから落ちた野菜をまわりにいた大人たちは拾ったまま返してくれなかったそうです。それで、おじいちゃんは、それ以上とられないようリュックの破れ目をしばってかかえて持ち、東海道線の刈谷駅で汽車をおりて、武豊線の緒川駅まで歩いたそうです。重い荷物を持って長い道を歩くのはとても大変だったと思います。でも、おじいちゃんは家族のためにがんばったんだと思います。

今は、戦争のない平和な世の中で、食べ物もたくさんあります。わたしは好ききらいがあって食べ残しもしてしまいます。でも、六十年前、おじいちゃんは、家族に野菜をとどけるために大変な苦労をしました。平和なことも食べ物が自由になるのもわたしたちにとっては当たり前だけど、生きるために苦労した時代があったことを知りました。今のくらしを守る努力をしていきたいと思いました。