半田市教育委員会賞
「ぼくはヤングケアラーなのか」

大府市立大府中学校1年

江口えぐち 隼生 しゅんせい

 「ごめん、ちょっとお留守番を一緒にお願いね。」

 そう言って母さんは四歳の弟を残して食材の買い出しに行った。あぁ、ゲームがしたかったのに。最近生意気になってきた弟を見てぼくはため息をついた。

 四年前、ぼくに弟ができた。弟が生まれると聞いたとき、ぼくはすごく嬉しかった。四歳上の兄と二人兄弟だった毎日が三人兄弟となるのだ。その変化にワクワクした。実際、生まれてきた弟は可愛かった。柔らかいほっぺ、元気な泣き声、あやして笑えばぼくの心も弾んだ。

 ヤングケアラーという概念を知ったのは学校で配られたチラシを見た時だ。ヤングケアラーとは、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこどものことらしい。その中に家族の代わりに幼いこどもの世話をしているという項目があった。

 ぼくも弟の世話や家事を任されることがある。だがそれは、お手伝いの範囲内でヤングケアラーと言われるほどのことではない。実際、年の離れた兄弟をもつ友人は他にも沢山いる。その友人全員が、ヤングケアラーと言われるとは思わない。

 家族が助け合って暮らすのは必要なことだと思う。大人といえども疲れていることはあるし、助けが必要なこともある。例えば、ぼくは母さんが洗濯物をたたんでいるとき助ける。そしてぼくが弟を見るのもその一環である。

 では、ヤングケアラーとは何なのだろう。ヤングケアラーも元は、家族を助けたい、助けなければという思いから生まれているような気がする。その負担や責任が、積み重なって大きくなり学業や友人関係に影響が出てしまうことが問題なのだ。どこまでがお手伝いでどこからが限度を超えた負担なのか。その境界線はあいまいで、もしかすると当事者であっても気付けない危険性があるのかもしれない。

 ぼくは兄と二人で分担して助け合っている。愚痴も言えるし相談もできる。それはぼくの心の支えになっている。もし、兄がいなくても家族や友人、先生など話せる人を見つける事が大事だと思う。話すことで自分の気持ちがわかり自分が困っていることを整理することができるからだ。

 家庭内のことは外からは分かりづらい。だが、助けを求めている人はきっと何か小さな信号を出しているだろう。だから、ぼくはその信号に気付ける人でありたい。また、そういう社会であって欲しいと願う。

 ヤングケアラーという言葉が広まり認知され始めたのは最近だと聞いた。それは、助けを求めている人がいるということに社会が気付いたということだ。気付きは変化を生む。未来は明るい。